昭和三十九年十一月二十六日 朝の御理解
この方の道は祈念祈祷で助かるのではない話を聞いて助かるのだ わが身におかげを受けた事を実意丁寧に人に伝えて行くと言う事 が神へのお礼じゃそれが神になるのじゃ
この方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるのだ。話しを聞いて助かる道、同時に我が身におかげを受けた事を実意丁寧に人に伝えて行くと言う事が、神へのお礼いじゃ、それが神に成のじゃ、とまで仰っておられます。
自分がおかげを受けた事を、実意丁寧に人に伝えて行くと言う事が、神へのお礼いだと言う有り方にならしてもらう事が、神になるのぞ、とまで仰っておられる。してみると、話しを聞いて助かると同時に話しを伝えて行くと言う事によって助かると言う事が言えますね。所謂、話しを聞くばかりが能ではないと、我が心からも練り出せと、我が心からも練り出させて頂くような信心によって、おかげを頂いて行く。そして、そのおかげを人に実意丁寧に伝えて行く。
普通、これをお導きをすると言う意味じゃないですね。その人が信心がなるとかならないとか問題じゃないです。ただ、自分がおかげを受けておる、有り難いと言う気持ちを、誰にも彼にも伝えさせてもらうと言うこと。日々こんなに有り難いおかげを頂いておると言うことをです、人に伝えると言うこと。お導きをする事が、神へのお礼いぞとは仰ってないですね。話しを伝えて行くのが神へのお礼じゃ、と、この辺のところをひとつ判らして頂く。
私は先日ここで、私の問題です。私の問題であり、ここの神愛会全体の問題でもある訳なんですけれども、言わば、大きな、問題なんです。その事を私、神様にお願いさせて頂きよりましたら、神様からね話しになるようなおかげに願え、と仰いました。話になるようなおかげに願え、と。例えば、私が願った事は右左問題じゃないと言うこと。例えば、お話しの材料にでもなるような、おかげ話しとして、話しせるような話の材料になるようなおかげを願えと、意味が判るでしょうかね。
私が一つの大きな問題をです、どうぞこう有りますようにと言うて願わして頂いておりましたら、そんな事はこうでもああでもいいのだ、と。ほんとに神様の働きを身近に感じさせてもらう。成る程、神様のお働きを頂いておる証拠だなと言うようなおかげを頂いたなら、それが話の材料になる。
教祖の神様の御教えは、この方がおかげを受けて来た事を話にして残しておくのじゃ、と仰っておる。おかげを受けて来たと言うこと、病気が治りましたとか、お金のお繰り合わせを頂きましたとかいうような意味相いだけじゃないのです。様々な難儀な問題と言ったようなものを、ひとつそれを踏まえてのご信心。そこんところの自分の心の動きとか、その事に対しての神様からのお伝えと言ったようなものが、御理解とか御教えになっておるわけなんですね。
ですから、どうでしょうか、今日一日を皆さん、どうぞ右に成りますように左にと言う願いもさることながら、それは願わして頂いていいです。しかし、結果です、本当に神様のお繰り合わせを頂いて、右にと思いよりましたら左になりました、と。ところが、左に成ります事がこんなにもおかげであったというような話の材料になるような今日一日で有りますようにと言うおかげを願い、そこに焦点を置いての今日一日であったらどういう事になるでしょうか。
神様をはずしは出けませんね。やはり、神様にお縋りした一日でなからにゃなりませんですね。言うならば、神様のお心のまにまに今日一日があらして頂くという事がです、ほんとに広大なおかげを頂いた一日であったとえて申しますなら、私の修行中のお話です。もうこれを何十遍繰り返してお話するやら判りません。もう商売もいよいよ、言わば駄目になってきつつある時に、神様がいろんなしん図を頂かなければ頂けないと言う時代でした。
少しばかり、こう引っ掛ける位ですから、タオル、私がその時分に製品が闇の製品の商売をしておりました。もう商品は殆どございませんでしたけども、二、三ダース位なタオルを、もうその時、自転車もございませんでしたから、歩いてでございました、大変その年は雪の多い年でございましたが、末の事でございますから、もうすぐ雪解けになってまいりますから、もう言うなら、雪解けの道の中をびちょびちょに歩きながら、靴はこう口を開けたような靴でした、もう一日中、福、博の町をこう回って歩くんですね。
神様は、それもいちいちお伝えを頂きながらですよ、右に曲がれと仰るから右に、左に曲がれと仰るから左。そして、この家に寄ってみれと仰るから寄って見るんですね。もう不思議な位にですね、そんなら貰おうかと言ったような話になるんですね、ところが、最後にお金を貰う段になると、ちょっと、なら裏に誰れ誰れさんに聞いてこう、とか言うごとになってから、折角だけど見合わせましょうまた、この次にしましょうと言う風にですね、もう皆んなそう言うような事でした。けれども、三遍四遍とそれが続いてまいりますとね、こりゃもういよいよ神様のご都合に違いないなーと感じさせて頂いておりました。夕方まで歩きました、もう福、博の町をその電車にでも乗って参りますと近いようですけども随分広いです。
もう、あっちこっち一日中足を棒の様になって帰ってまいります。もう靴下は濡れてますからびちゃびちゃなんです。そして、もう足を洗って、抱えているタオルは持って行ったそのまんま、商品は。足を洗って、ご神前にぬかずかせて頂いたら、頂くとですそんな場合、もう兎に角、有り難さで頭が上がりませんでした。
もう、私が神様に対する姿勢は、どういう事であったかと言うと、神様、今日もあなたのお心のまにまに動かせて頂きました。売れませんでした事は、私の不徳、けれどもおかげでこのような修行をさせて頂きまして有り難うございます、という事になった。
いつの場合でも、もう、そして頭が上げられんごと有り難たかった。さあ、この話しを皆さん何遍聞かれたか判らないでしょうが、話しになるような一日であったと言う事なのです。
それは、売れたから売れなかったから、そんな事じゃないと言うことです。私が、その大きな問題をです、神様にお願いをさせて頂きましたらね、話しになるようなおかげに願え、とこう仰る。だから今日一日が皆さんのです、今日一日が話しになるような一日であれバ有り難いですね。そして、それは只今申しますように、売れても売れんでも神様へのお礼であり、またお詫びであり願いでありましてもです、それが十何年後の今日まで話しになって残っておるでしょうが。
この話しは到る所に出てまいりますから、もう、言うなら皆さんが聞き覚えておられるようなお話なんです。兎に角、神様にお願いして頂いて商売に出させて頂いたら、それこそ置くものを取るようにして順調なお繰り合わせ頂いた、と言うような話よりも、どの位こくの有る話しやら判らんでしょう。もう一つ、今日一日だけじゃない一日一日がそれじゃなからにゃいけないけれども、まず今日一日のところに焦点を置いてですたいね、お話しの材料になるような今日一日で有りますようにお食事、例えば、夕食なら夕食、夜のご祈念ならご祈念を終わらして頂いて、家族中の者が今日はこうじゃった、しかし神様のお働きの間違いなさには驚くね、と言うようなお話しが家族中でも出けるように、しかもそれが人に伝えられるようなおかげを頂かにゃいけません。
この方の道は、祈念祈祷で助かるのではない。話しを聞いて助かる道とおっしゃる。話しを聞いて助かると同時にです、我が身におかげを受けて、それを実意丁寧に人に伝えて行く事が神へのお礼とも仰る。それが神になるのぞとも仰る。 ですから、お話しと言うのは、勿論しっかり信心の話しでありおかげを頂いた話であり、神様のお話なのです。 話しを聞いて助かると言う事と同時にです、そういう意味相においてから、そう言う話しが人に伝えられるところのお話しと言う事はです、それが神様へのお礼である。それは、お導きをせろと言う意味ではない。問題は自分の有り難いと言うその体験を人に伝えると言うこと。伝えるだけで神へのお礼になる、導けとは仰ってない。だから、相手が聞いて、そりゃ、はあー有り難い神様じゃがと言うて連れて参って下さいと言うかもしれん。はあーそうですかち言うて、ただ聞き流すかもしれません。そんな事は問題じゃないと言うこと。
自分のおかげの受けた事を誰にも彼にも伝えてさせて頂かにゃおれんようなおかげを日々頂いていかなければならない、それが神へのお礼である、しかもそれが、神になるのぞと言う事である。その、なら今日一日をお話させて頂かなければおられないよいうような問題がです、おかげ話がです、まあ、例えていうなら商売、こげなお繰り合わせを頂きますよと言う話もさることながら、私が一日ご神意のまにまに福、博の町を、しかも雪の日に歩かせて頂きながら一筋のタオルも売る事が出来ずに帰って参りましても、今日も結構な修行をさせて頂きまして有り難うございましたと、売れなかったのは私の不徳であり、ただし修行させて頂いたのは有り難いのだから、有り難いとお礼を申し上げたその話しが、今に皆さんに聞いてもらえるような話しに残っておると言うこと。
その日日、日日がそう言う一日で有りたい。皆さんがこうやってご理解を頂かれて有り難いと思われた所だけでも家族の者に伝えさせて貰えるとか、また、そのご理解をもとにして、今日一日おかげを被らして頂いたら、こんなにも神様のお働きを身近に感ずる一日であったと言う事をです、家族だけのものではない、誰にも彼にもお話しが伝えられるようなおかげを頂く為に、本気でその話しと言うその事にです取り組んで、所謂、信心生活と言うものが、その生活そのものがです、信心になっておらなければならないかと言う事が判りますですね。
「おかげ頂きました」